2017.07.20
公共の場で「ギャン泣きする子供」のママに伝えたかった!その大切な【ひと言】とは?
つい先日スーパーへ行った時、3歳くらいの子どもがものすごい勢いで泣いていました。お母さんは3ヶ月くらいの赤ちゃんを抱えながら、ほとんど怒号に近く、子どもを叱り飛ばしています。子どもは泣き止まず、ひっくり返って「ギャン泣き」です。
私はチラ、と子どもを見、そしてお母さんを見ていました。次の瞬間、お母さんと視線が合いました。お母さんはなんとも言えない困惑の表情を浮かべつつも怒りを抑えきれないらしい顔つきで、またフイと子どもに向かうと小さな子どもの手首をつかんで、引きずるように店内から出ていきました。子どもの靴が片方落ちて、それがきっかけで私は我に返って靴を拾い、追いかけました。
お母さんは外で、もはや声をかける気力もないように泣き叫ぶ子どもの前で、ただ立っていました。私が靴を渡すと、「すいません」と小さな声で言いながら、靴をぎゅっと握りました。「大丈夫ですよ」と声をかけるべきなのかしら? 「こういう時もあるよと気楽に話してみるべきかしら」そう迷いつつ、結局、仁王立ちしているお母さんから、私はそっと離れていくだけでした。
私も経験した「ギャン泣き」
下の子が3歳か4歳くらいだったでしょうか。
混雑したターミナル駅で、何がきっかけだったか泣き出しました。ほんの数秒は「しくしく」だったのに、導火線がどうにも短く、火がついたように激しく泣き出しました。
あれこれ話しかけたり、「お菓子買ってあげる」とかモノで釣ってみたりしたけど、いっこうに子どもは泣き止まない。抱っこしようにも反り返って今にも落としそうになる。まるで、この世の終わりかというイキオイで叫び泣きです。これが数分ではない、いっこうに泣き止まないのです。
私は混雑するホームから駅ナカまで連れて行くのに精一杯。思わず子どもをおろすと、そのまま汚いフロアーに大の字になり、これでもかと泣き叫びました。疲れ果て、どうにでもなれと立ち尽くすばかりでした。すれ違う全ての人が私たち親子を見つめているように思えました。映画のワンシーンで言えば、まるで周囲にいる大人がグルグルとまわりながら、私たち親子だけがそこに取り残されているような感じでした。
(あんなに泣かせて……)
(躾ができてない)
(どうして放置してるんだ)
(うるさい)
(公共の場で迷惑を考えろ)
耳をふさぎたくなる衝動に襲われました。
誰も、ひと言も、私に対して文句を言った人はいません。でも、人々のチラリと見下ろすような視線が「モノ言う力」を持って、胸中の言葉が、聞こえてくるように思えたのです。
ママなら1度は体験する「子育てもう嫌!」
自宅でギャン泣きされるのも、それはそれで大変ですが、でも精神的にはちょっとは「好きにせい!」と開き直れるところがありました。
が、外では別です。
その違いは「他人の目」です。
私は、ほんの数年前までこのお母さんと同じ状況にあったのに、ギャン泣きする母子を無意識にも「チラリ」と見下ろしていた自分に初めて気づいて、同時に
「違うのに」
とも思いました。私はそのお母さんと子どもが「うるさくて迷惑だ」とは全く思わなかった。ただ、うわ、すごい泣いてるな、ありゃ大変だ、とすれ違いざまに一瞬思っただけです。このお母さんに対して何かひとつでも悪いように感じてはいません。
感じてはいないけれど、その他大勢の人たちと同じように、私はまじまじと母子を見ていました。
あのお母さんは、たぶん、ターミナル駅で立ち尽くしていた当時の私と同じように、なぜ泣き止まないのか、わが子への苛立ちが募りながら
「ちゃんと子育てしてるのに」
「泣き止まないのは私のせいじゃない!」
「そんなに見るなよ!」
本当は叫び出したかったかもしれない……。
猛烈な孤独感や育児に対する徒労感や、あるいはむなしさとかが、次々と脈絡なく襲ってきていたかもしれません。なけなしのお金でタクシーに逃げ込み、家にたどり着けば、どうしようもない疲労と消耗感に包まれて、何事もなかったように眠ってしまったわが子を見つめる夜、
「子育て、もうイヤだ」
と思い、そして思った自分に対する自責の念にまた、別の意味で辛い思いをしたかもしれません……。
伝えたかった「わかるよ!」共感の気持ち
これもまた、私の勝手な「そのお母さん」に対する妄想かもしれません。でも、自分の不躾な視線が子育て中のお母さんにはひどく痛く感じるかもしれない事を、私はどうしてすっかり忘れて、あんな風に見てしまったのでしょう。
実際、子どもが大勢の人が集まる場所でギャン泣きした時の困惑と同時に、高まるのが抑えきれない怒り・・・それは泣き続ける子どもへの怒りと、周囲の理解を得られていないと感じて覚える怒り・・・でもあります。
子育ては真っ最中のその時期しか、共有しづらい面があります。3歳児の大変さ、保育園でのもめ事、しかし時が過ぎて小学生になれば、
「うんうん大変だよね。でもね~、小学校には1年の壁ってやつがあるのよ。これが本当に辛いんだよね」
小学校1年の母である「大変さ」のリアル感が強すぎて、既に過ぎてしまった子育ての時期は、「あの頃は大変だったけど、可愛かったなあ」と「小さな思い出」に昇華してしまったりする。子育ては振り返ると案外と「懐かしい思い出」というキレイな言葉にすり替わってしまい、気づけば今自分と子どもを取り巻く環境に対する戦いや日々の苦労にだけしか共感できなくなってしまう。
その年齢を過ぎたら、同じように気持ちを分け合う「共感」は難しいのかもしれません。だけど、共有しようとする事はできたはず。
あのお母さん。
もし何かの魔法で、あのお母さんがこの文を読むようなことがあったのなら。靴を渡す時に、本当はこう言いたかったんです。
「わかるよ! あんなに泣かれて死ぬほど大変だよねー!」
本当はそのひと言を、伝えたかったんです。
「あなただけでなく、私もおんなじ経験しているよ」
そう伝えたかった。
あんな場面で伝えられても困ったかもしれない。「大丈夫よ」と声をかけてもらって救われたママもいるでしょう。逆に見知らぬ人にギャン泣きされている最中に話しかけられても困る、という人もいるはず。その状況やママの性格にもよるから、「その時期」を過ぎている「ちょっぴり先輩ママ」としては、どうするべきだったのか。
少なくとも、私がイヤだと思った「周囲の視線」のひとつにならず、まじまじと親子を見つめてしまうべきではなかった、とだけは思っています。
結局、次に同じような場面に遭遇しても、声をかけることはないのかもしれない。でも、「あなたと同じ気持ち、私もなったよ」今ここで、たくさんの「ギャン泣きされて参ってる」そんなママたちに、伝えることができたらと思っています。
大橋 礼
ライター
年の差15歳兄弟の母。DTP会社勤務後、フリーで恋愛・料理・育児コンテンツを執筆中。今や社会人長男のママ仲間とは「姑と呼ばれる日」に戦々恐々しつつ、次男の小学校では若いママ友とPTAも参戦中。飲めば壮快・読めばご機嫌!本とお酒があればよし。